座喜味城跡の築城主(つくった人)
座喜味城跡は、1416年(※1)に建物を建てる技術にたいへん優れていたという人によって築かれました。築城主は、現在の恩納村山田で生まれ、父親の跡を継いで山田グスクの按司(土地を治める人)になり、その後、見通しのきく読谷村に座喜味城を築いたとされています。座喜味城跡は3タイプの石の積み方でとても頑丈に造られました。
(※1)1422年の説もあります。
Q:さて、座喜味城跡をつくった人はだれでしょう?(クリックかタップしてください。)
座喜味城跡の紹介
石の積み方
座喜味城では主に布積の方法で城壁が積まれていますが、相方積、野面積も部分的に使われていて、沖縄のグスクで使用された石積みの主要な技術を見ることができます。
【布積】
四角形に加工した石を組み合わせ積みあげる技法です。野面(のづら)積みより崩れにくい積み方です。
【相方(あいかた)積】
五角形や六角形に加工した石を組み合わせて積み上げる技法です。布積みより崩れにくい積み方です。
【野面(のづら)積】
自然の石を加工せずに積み上げる簡単な技法です。
粘土層の地盤
座喜味城跡が所在する台地は、「国頭マージ(粘土層)」の台地です。世界遺産に登録された他のグスク(城)が石灰岩の台地に築城されている中で、座喜味城は粘土層の地盤に築かれた唯一の城です。
沖縄のグスクといわれる城の周辺には、石灰岩の岩場があり、石材が得られる場所があります。しかし、座喜味城跡の周辺には石を採るための場所は見当たりません。恩納村の山田城から人力で運んだといわれています。その苦労より、ここにつくるメリットのほうが大きかったということでしょうか。
座喜味城跡からの展望
城壁の造り
城壁の造りは、現代ダムの平面アーチ構造(直線でなく曲をえがく)に似ていて、脆弱な地盤の上でも強固なものとなっています。各平面アーチをつなぐ節から外敵を監視できます。
2つの石造アーチ門
一の郭のアーチ門は復元されたものですが、二の郭のものはほぼ当時のものを修理したものです。
くさび石(二の郭アーチ門)
二の郭アーチ門天井のくさび石は三角形で、一の郭のくさび石は方形です。
くさび石(二の郭アーチ門) くさび石(一の郭アーチ門)
出土品
座喜味城跡では、中国製陶磁器(青磁、白磁、染付)、褐秞陶器、グスク土器、カムイ焼、古銭、鉄釘、米、麦、豆、獣魚骨などが出土しました。遺物は、15~16世紀頃のものまで出土しており、護佐丸が中城城に移った後にも何らかの目的で使われていたものと考えられています。
青磁 褐釉陶器 炭化物
寄進灯籠
護佐丸の子孫の座喜味親方盛譜が1843年に江戸参府(江戸上り)で徳川12代将軍家慶への慶賀使(副使)としての任務を無事に果たし帰国した際に領地の城内拝所に建立されました。
拝所
二御前、城内火神、城内アザナイシ御イベ、読谷山城内之殿の4拝所がありました。現在は二の郭アーチ門前に移設されています。
座喜味城跡が復元修理されるまで
座喜味城跡は、太平洋戦争で日本軍による高射砲陣地として使われ、さらに米軍基地としての占用されました。それによって、石積は、改変されましたが、昭和47年に沖縄県が本土復帰を果たすと、同じ年に国指定の史跡となり、昭和48年から61年までの13年間をかけて、今の城跡の形へ復元整備されました。
座喜味城跡からの360度展望
座喜味城跡は、景色がとても良いことでも評判です。web限定の特別な眺めを含めてお楽しみください。
現地では、城壁の立ち入りできる場所は限られています。安全のため、案内板の指示に従い、立ち入り禁止の場所には、入らないようお願いします。